オーストラリアは、カナダとほぼ同様の多文化主義を採用している。それゆえ、カナダにおいて見られるような多文化主義政策が数多く実施されており、その一例としてSBSが挙げられるだろう。
1970年代、白人以外の移民を事実上禁止することを旨とした政策(白豪主義)がゴフ・ホイットラム政権によって捨て去られ、これが契機となってオーストラリアに多文化主義が根付いた。とはいえ、この政策転換はオーストラリアがイギリスから分離し、国家としての主体性を確立する過程の一側面に過ぎなかったという指摘もある。
オーストラリアにおける「多文化主義」の考え方(定義)は、白豪主義を捨て去った当初に比べると大きく変化している。元々は、一部の移民が異なる文化圏の出身者だとしても、オーストラリア社会との関係を容認しようという程度のものだったが、現在では異なる「文化圏」の存在自体をオーストラリア社会の中に容認しようというものに変わっている。現在、このオーストラリアにおける「多文化主義」の考え方は、国民の多くがそれぞれ多様な文化的・民族的背景を持ち、またこの現状を承認しているという事実を引き合いに出す際にしばしば用いられる。
オーストラリア移民多文化省は2005年、同国内における労働力の25%が国外出身者であり、40%が少なくとも片親が国外出身者であると推定している。
オーストラリアにおける最初の多文化主義に関する国策は1978年、マルコム・フレーザー首相(当時)率いる自由党政権によって実施された。一連の政策は、次にボブ・ホーク労働党政権に引き継がれた。1990年代初頭、ポール・キーティング労働党政権は多文化主義を支持する姿勢を崩さなかったが、オーストラリアの前首相ジョン・ハワードは、「国家としての主体性を国民全体で共有するべきだ」という理念の下、多文化主義に批判的である。とはいえ、多文化主義的な政策は何の変更もなく存続している。ただし、アンドリュー・ボルト (Andrew Bolt) に代表される保守派の新聞コラムニストらは、国家的な同化政策の必要性を主張している。
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スウェーデン
スウェーデンにおいては、公式には1975年に多文化主義的な政策に取り組み始めた。この政策が取られる10年ほど前から、スウェーデンは深刻な労働者不足に見舞われ、同時に他の北欧(スカンジナビア)諸国やポーランド、南ヨーロッパ、中東からの移民が増加していた。このため、1979年までにスウェーデンの全在住者の11%が国外出身者となった。これを受けてスウェーデン政府は、移民に対して国内で働く条件としてスウェーデン語を話すことを要求し、同時に大学の学外講座として(スウェーデン語の)語学研修を無料で受けられるようにした。
複数の自治体と大都市における一部の地区においては、住民の大多数がスウェーデン語を話さず、文化的にもスウェーデンと馴染まないような地域が生まれた。そこで国は、移民の子ども達がスウェーデン語を学ぶための教室を各学校に創設し、他方で移民らの出身国に応じた言語(=スウェーデン語以外の言葉)による教育を与える試み(hemspråk program - 母国語プログラム)を放課後の補習として開始した。これらの多文化主義的な政策は、現政権によって絶えず批判に晒されており、再検討の段階に入っている。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国 では政府の正式な政策として多文化主義を採用しておらず、一部の州政府が英語とスペイン語の二言語常用を採用しているのみである。しかし近年では、アメリカ政府は多文化主義を支持する傾向にある。例えばカリフォルニア州では、カナダの多くの州と同じように、運転免許を取る際に試験の言語を選択することが出来る。
英国
保守党の政権下(1979年から1997年の間)では、多文化主義的な発言は左派陣営の中でのみ主張されるに留まっていた。しかし、1997年以降の労働党政権の発足以降、政府の政策や発言は多文化主義の影響を受けている。現政策の先駆けとなったものとしては、1965年の制定以降修正案が加え続けられている「人種関係法」や同様に1948年に制定された「イギリス国籍法」などが挙げられる。多文化主義政策に否定的な態度を取る最近の批評家としては、ウガンダ生まれのヨーク大主教ジョン・センタムやパキスタン生まれのロチェスター教区主教マイケル・ナジラリなどが挙げられる。
マレーシア
マレー半島は、国際的な貿易やりとりの歴史が長く、半島の民族的や宗教的な成り立ちに影響をもたらしている。18世紀以前はマレー人が支配的だったのに対し、イギリス人が新しい産業と共に中国人やインド人労働者を紹介した際に、民族構成が激しく変化した。ペナン州やマラッカ、シンガポールなど当時のイギリス領マラヤ (British Malaya) に属するいくつかの地域は、中国人が大部分を占めるようになった。インド、中国、マレーの3つの民族とその他少数民族グループ間の共存は、マレー人の人口統計や文化的な位置付けに影響したにもかかわらず、主として平和的である。
マラヤ連邦独立以前は、マレーシア社会契約 (social contract (Malaysia)) が新しい社会の基礎として交渉されていた。マレーシア憲法 (1957 Malayan Constitution and the 1963 Malaysian Constitution) にも反映されたその契約は、移民達に市民権が与えられることやマレー人に特別な権利が保障されていることが述べられている。この政策はよくブミプトラ政策と呼ばれている。
マレーシア連邦国自体の設立は「人種の数学」で重荷を負わされてきた。当時の首相トゥンク・アブドゥル・ラーマンは、サラワク州とボルネオ島北部 (North Borneo) が認可されない限り、シンガポールも連邦の一部として認めないとしていた。その首相の主張の根拠には、シンガポールの包含による新しい連邦国は、マレー人を代償にして中国人を新しく多数派勢力にしてしまうという懸念があった。その一方で、ボルネオ島にあるそれらの州を含めば、マレー人を多数派として維持できることが背景にあった。
民族間の緊張は1963年のマレーシア国設立と共に続いた。人民行動党の元率いられたシンガポールと統一マレー国民組織に率いられた連邦政府との間には社会契約に関する議論が絶えず、このマレー人と中国人間の緊張は、後にシンガポールでの1964年の人種暴動 (1964 Race Riots) を引き起こすこととなった。この暴動は、部分的にマレーシアからのシンガポール追放 (expulsion of Singapore from Malaysia) を促すものとなった。同じ頃、マレーシアではマラヤ非常事態 (Malayan Emergency) として知られる共産党による反乱が起こっていた。この紛争は、中国人支持のマラヤ共産党とイギリスが後ろ盾になっていたマレー人支持政府との間によるものと捉えられている[6]。
最悪の暴動は、1969年に再び中国人とマレー人の間に起こった5月13日事件である。これは、民族間における経済的不釣合いを減少させることを目的としたマレーシア新経済政策(マレーシアネップ) (New Economic Policy) や、ルクネガラ (Rukunegara) と呼ばれる全ての民族間での団結を奨励したマレーシアの国家指針などの政策導入や、ディーパラヤ(ディーワーリーとハリラヤ・プアサの混成) (DeepaRaya) やコンシーラヤ(旧正月とハリラヤ・プアサの混成) (Kongsi Raya) などの習合祭事の啓蒙につながっていった。教育面では、当地で話されている言語を活用した教育(マレーシア教育の章を参照) (vernacular education) が国の教育政策として取り入れられ、中国を除いて、マレーシアのみが世界で唯一中国語での教育システムを持っている国である。
これらの多元論的政策は、非宗教やイスラム教ではない宗教の影響に反対する正統派イスラム教徒やイスラム主義政党から圧力を受けており、この問題は論争の的になっているマレーシアでの信教の自由 (status of religious freedom in Malaysia) に関わっている。